野口晴哉先生の整体について
整体ということば
私にとって、こころについての最高権威が河合隼雄先生なら、
からだについての巨人は野口晴哉先生です。
野口先生は、お会いしたことはないんですけど、
尊敬しすぎて呼び捨てできない(^^;
没後40年以上が経ちますが、今なお崇敬される、
熱心な信者さんのような先生方がたくさんいらっしゃいます。
今、整体という言葉は、昔からの言葉のように普及していますが、
野口先生の造語なのかどうかは別として、
広く世の中に普及させたのは、間違いなく野口先生の功績です。
私が、こころとからだについて、学びたいと思った時に、
一番に「整体協会」で学ぶことを考えました。
結局、体系的に学びたい、鍼灸も学びたい、国家資格を取りたい・・・と考えて、
鍼灸師と按摩マッサージ指圧師、
いわゆる三療の国家資格がとれる専門学校に入学したのですが、
いまだに、野口整体の整体師は憧れです。
整体師ということばは、かなりあいまいで、
それこそ自分で整体師です・・・と名乗ってしまえば、
整体院をその日から開くことだってできます。
いろんな整体法があって、
はっきりいってなんでもありの玉石混交の整体の世界ですが、
野口先生の考え方に基づく整体法は、別格だと私は思っています。
「体を整える」
もちろん、それはそれぞれ自分で整えるようにという運動でもあるのですが、
人のからだをちゃんと整えられるひとになりたいというのは、私の一生の目標です。
「氣」は心ではない
からだを整えるにあたって、「氣」ということが最重要になります。
東洋医学でも「氣・血・水」を全身に巡らせることを再三説きますが、
「氣」とはなにか?は、またいろんな角度から掘り下げてみたいと思うのですが、
野口先生はどのように考えられていたのか。
「気」は見えません、触れません。ただ感じるだけです。
五感で感じるわけではありません。山の中でも水があれば、水の気を感じます。
火があれば火気を感じます。街の盛り場などの空は人の気が上がっております。
気が張っていると、苦しいことも痛いことも感じません。気が凝ると、そのことにしか心が働きません。
~(中略)~気が沈むと自分のことしか考えられず、なんでも陰気に感じ、笑い声まで空々しく感じます。
強気な時は何でも活気に映ります。
「気は心」といいますが、心そのものではありません。
ただ気の動くように心が動くだけです。心だけではありません。
からだも気の行く方に動きます。
そう、気の方向にからだって動くんですよね。
そして野口整体に特徴的なものに「愉気法」というものがあります。
気をおくり、気を通して元気をよび起こすという「愉気」
ですが、まだ私が野口先生も知らず、
体にたいする興味のなかった20代に一度経験があるんです。
そのころ所属していた学会で、頭が痛くてうずくまっていた私に、
その場に居合わせた野口整体のお弟子さんだという方が
「愉気」をして下さったんですね。
それは、とても不思議な体験でした。すうっと。
本当にすうっと、頭痛は消えたんです。
その方とは二度とお会いすることはなかったですし、
永らく忘れていたことでもあったんですが、
野口整体ということばと、
頭に手をかざされたあたたかい感覚はずっと残っていたんです。
体癖ということば
野口先生には、そのものずばりの「体癖」というちくま文庫の御著書があるので、
またその御著書で詳しくお話しますが、
人間の身体運動は一人一人異なっていて、
その癖によって表現されるものが違うという考え方があります。
十二の体癖に分類されていて、その分類の方法がまたユニークなのですが、
私も日々、患者さんのからだを診ていて、
基本的には鍼灸の経絡治療の分類の仕方で診るのですが、
それにどうしてもあてはまらない時に、
この体癖で見直して考え直すことがあります。
そうすると、わからなかったことがふとわかるときがあるんですね。
もちろん、まだ未熟なので診た途端わかるわけではないのですが、
カルテをみながら、症例を丹念にみていると
ふと浮かび上がってくることがあります。
言葉のかけ方ひとつでも、二種の体癖の方と三種の体癖の方とでは、
変えないと耳に届かないというようなことがあります。
また、そのパターンというのが星雲のように無数にあるので、果てしないというか、
勉強しがいがあるというか、とにかく飽きないのです。
野口先生、偉大過ぎます。
一生読み解いて、わかりやすくみなさんに説明していきます。